流れに任せるとうまくいくか バランスを捨て、イメージを持って
バランスを重んじる人は沢山いる。だからこそ、そういうことは他人に任せていい。
バランスどうこう言う以前に、内から湧いてくる極めて個人的な妄想群〜 イメージ 〜 を実生活の中心に据えること。
例えば、太陽の日差しが最高だと知った日、すべての予定を変更する。
日差しという単純な天の意図を逃さないこと。
「太陽に向かう」ことから1日を展開してみること。
少なくともその日、その無防備な可能性を探ってみること。そのまま、山や海、行きたいところまで実際に行ってしまうこと。
それがどういう体験になるのか。
潜在意識の流れに任せること。自分の展開力と想像力で予測のつかない1日に賭けてみること。
そういう行動の中にこそ、強い個性の片鱗を見出すこと。
そのために、感覚(パルス)を最大出力にキープしておくこと。そんな日を持つことが、自分にとって最良の事のひとつだと知ること。
僕は実際こんな日を過ごすことがある。月に何度か。
希薄なプランとアクティブな精神。スケジュール帳にない1日。
糸の切れた凧のようになることもあるけれども、切れたおかげで風によく乗ることも。
糸の切れた凧を実際に追いかけたことはあるだろうか。
引き寄せられ流れに任せる先のゴールはどうなるのか。
最終的にはゴミ箱かもしれない。
しかし、思いのほか風にのり、海を越えることもあるかもしれない。遠いところに辿り着くことも。
現実的な話として、そんな時間を過ごすことで、写真家としてもインスピレーションの恩恵を受けることがある。
太陽に近づき、山に入り、平日の午後に誰もいない田舎の道を歩く。
一人になることのが、休日に限られた出来事ではないと知ること。
自由を作りだす才能。
その才能に長けると少しでも自覚する場合、中学生であっても、大人でも、あまり関係はない。
そんな些細な才能こそ疑わないのが最良のもの。
一人で羽ばたけるなら、そうすること。
純度は高く、濁りなし。
媚びないし、迎合がない。
密かな緊張感。
そして、これは旅行の話題でもないし、趣味の話でもない。休日の時間の過ごし方でもない。
極めて個人的な色を帯びた「平常の1日」についての話。
1年のなかでも自分の存在の中央に据えるべく大切な日についての話。
成果主義の弊害は野暮であること
こんな時間を成果につなげようとするのは、野暮な話だ。成果など振り返りもしないことが心の芯なのだから。
多幸感に溢れるなら本当はヒッピーになればいい。しかし、作り手ならば、そういった時間と成果の按配もなんとなく分かっている。
そこはものづくりの素晴らしいところ。多幸感プラス成果。それは理想的。
でも意外と簡単なことで、出かけた先でまず少しの記録をとればいい。
言葉に残す。本当にちょっとした”うごき”の断片を拾い、残す。でも言葉は一人歩きすることが好きだから、あくまで”キッカケ”だけに留めること。最後まで書ききらない。
最終的にはイメージに戻ること。イメージを正義とすること。
物理的な断片を拾うのもいい。記念品。現実としての重さ。
落ちている枝、変わったかたちの山の実。動物の骨。
”キッカケ”を収集する。自然から切り離し、持ち帰るには小さな勇気がいる。
写真を撮れるなら撮る。撮らなくても十分。
地理や歴史、地名は知らなくても大丈夫。そういうものはイメージという大きな世界では、後付けの産物であると知ること。
自分の匿名の景色を持つこと。風景とは本来そういうものであると知ること。